ぼうけん

これはきっと忘れてしまうから、長くなってもいま書いておかないといけない。

今日は天気も良く暖かかったので、コープで買った昼飯を早めに済ませて、12時から三峰神社を目指してツーリングをはじめたのだ。ネギトロ丼とコロッケカレーを豪快に食べた。おかげでガッツが出たような気がする。今日はそのまま何もない日を過ごすはずだった。

関越道方面から鶴ヶ島経由狭山で降りて、巾着田を通過して秩父路をのぼった。ここまでも何ということもないいつものありふれたツーリングだった。相変わらず秩父までは低速車があふれていて、道の駅あしがくぼにつく頃に14時。すでに二時間のツーリングをしている。もう帰宅してもよいくらいだったが、三峰神社までは行きたかったので水を買って継続した。

秩父で給油、三峰神社まで30km。思ったよりずっと遠い。運悪く路線バスもいてここでも低速。しかし信号のない道は素晴らしく、「県境の国道の醍醐味」を感じられた。
三峰口からの山道も長い。秩父湖の二瀬ダムは、ダムの堤防上を走る珍しい道。写真を撮りたいほどに珍しかったが停車禁止に従った。青い若葉やツツジの薫り。山特有のスッとした空気。ふと足を止めたくなる涼しげな渓流や湖。もう少し暑くなればさまざまな虫の声がするんだろう。上を見上げれば青葉のトンネル。

三峰神社に着いたころには15時20分。幸い6月は陽が長いので寒くない、と思っていたが標高の高い神社のあたりは寒かった。こんなに山奥だなんて全然知らなかった。
参拝とありがたい氣のお守りの購入をして、エネルギーをいただけたのではないかと思う。あまりそういうものは信じないほうだが……ご神木にも触れさせてもらった。16時20分出発。この時期のこの標高、夕刻は虫がすごいようで、帰り道は顔にバチバチと虫が飛び込んできた。山道を走っていて不思議な花の香りがしたのだが、この時期はなんだろうか。五感をフルに使っている。国道まで降りてくるとまだ暖かかった。

秩父まで戻りたくなかったのでそのまま雁坂トンネルを目指す。途中のループ橋のある滝沢ダムは美しいので写真を改めて撮りにいきたいくらいだと思った。トンネルの中が寒い。秩父の奥地まで来ているのに県境が遠い。相変わらず見積もりが甘い。雁坂トンネルの埼玉側の橋が二色で見た目も美しかったが、撮影は難しそうだった。

長いトンネルの中で感じたのは、ここが地中であるということ。人口の光しかない地中の世界は、このような感じなのだなという感覚。電力という文明があり、掘削という技術があってこそのシロモノ、近代SFファンタジーみがある。県境まで来ると温度に慣れてきて、暖かさすら感じてくる。太陽のない世界がこの世にあるけれど、そこで生きる生物はこのような感じなのだなと思いをはせた。

埼玉側より山梨側のほうが標高が高いのか、かなり寒かった。徐々に快適な温度になっていったが、山梨側の道路の整備がしっかりしているので快適にツーリングできた。奥多摩経由の山梨側の道も整備されていてよい道だったことを覚えている。山梨の県境の国道は安心感がある。
この道を下って行きつくところがフルーツ公園であることがわかっていたので、行くか迷いながらも、温泉に立ち寄って帰ることにした。国道沿いには過去に訪れたことがあるはやぶさ温泉をみかけた。忘れもしない、ひなびた温泉だ。しっかり覚えているけれど、なぜか記憶がどこか欠けているような感じがした。

迷ってマップを確認しつつ、フルーツ公園経由でほったらかし温泉にたどりつけた。まだ明るい。時間は18時。日が沈みゆく空を眺めながら展望の良い「あっちの湯」に浸かった。

ここで思い出したことがたくさんある。ずっとずっと、忘れていたこと。

空は絶え間なく動いていること。雲は低層と高層があって流れが違うということ。それらはただある方向に流れゆき、空全体が「地球の表面」であることを気づかせてくれる。夕焼けは下層の雲が色づいた後、長い時間をかけて高層の雲がうっすらと色づく。これも地球の表面であることの証だ。知らなければ、考えなければ何とも思わない些細なこと。よく海はどれほど広いのかという御話が代表されるが、実は海よりも空のほうがずっと広いのだ。海と違って天井もない。
関東平野の空のほうが遮るものがなくよっぽど広いのではないかと言われることもあるが、建物に切り取られることのない、山の稜線という額縁に完全に縁どられた奇跡とそれは全く違う。空は眺めるものではない。感じるものなのだ。 都会の人は知らないだろうが、山の稜線があるからこそ空はより高く感じる。あの山の稜線よりも高いところに雲が流れている。まるで手に届きそうな雲なのに、それはとても高いところ。
しかし稜線は日没とともに境界を失っていく。かつて千葉や伊豆の海にも感じた境界の同化。空と大地がつながってひとつになるとき、空は本当の広さになる。

まず山には稜線があるということ。山の稜線が距離によって濃さが違うということ。山にかかる入道雲は、嵐を巻き起こしているだろうこと。あの山の向こうには何があるのだろう?と考える心。山の裾野の開拓の境界に人間の生活を感じる。もしここが山を越えた先が、未開の盆地、いや大地だったら? 平地も木々が生い茂り一面に森が広がっているとしたら、わくわくしないだろうか? 何気なく県境を越えて、山を突き抜けてきたけれど、それこそがかつては大冒険で、眼前に広がる新たな地に興奮を覚えたであろうこと。 街がすでにあったとしても、それはまったく知らない街。 自分はこんなにも簡単に「あの山の向こう」を知ることができるのだ。そうした過去の人の浪漫を同じように感じることができる。

夜景が美しいということ。人々は確かにそこで生活し、生きている。この空が広いと同時に、この小さな光ほどの狭い空間で生きている。なんとちっぽけな存在であろうか。しかしそれは都会の輝きとは全く異なる。ひとつひとつが、チラチラと、まるで消えそうな線香花火のようにきらめく。遠くに望む規則正しく並んだ明りは高速道路だろう。スーパーや信号機、街路に沿って規則正しく、しかし間隔をあけて光が並んでいる。この、うるささを感じない日常な営みの輝きこそが尊いのだ。

歯の矯正でものを食べる楽しみがなくなってしまったが、一度にまとめて食べるのなら問題ではない。ほうとうがとてもおいしそうだったので注文した。味噌おでんと半熟卵揚げも追加した。野外でものを食べることの楽しさを思い出した。その土地ならではのものを食べる楽しみ。すっかりそうした気持ちがなくなっていたことに涙が流れ、自ら選んだ食事のおいしさに心打ちひしがれた。最後の五感、味覚を思い出したのだ。

夜間の知らない街は、どこを走っているのか全く分からなかった。標識通りに道を進んだら一宮に着いた。帰宅してから、いったい自分はどの道を通ったのか? マップを眺めて答え合わせをする瞬間。どうして、どうしてこんなに楽しい思い出の現像をする時間を、忘れてしまったのか。何よりも地図が好きだったあの頃。いつしか地図も買わなくなって、通った道をたどることもしなくなっていった。 一度通った道は忘れない、そんな記憶力だったのに、すっかりどこに行ったかすら忘れてしまった。方向を知る第六感。そういうものがかつてはあったこと。

どうして自分はこんなに大切なことを忘れてしまっていたのだろうか。次の街はどんなところだろうかと標識を眺めるときの気持ちは完全に夏休みの童心だった。知らないところにいくワクワク感。知っていても、忘れてしまっている景色。関東じゅう行きつくしたと思っているけれど、新しい相棒と再訪すると、きっとかつて感動した記憶が呼び起こせるのではないだろうか。高速のインターチェンジの東京の文字を見ると、帰らなきゃというよりも、行かなきゃという気持ちになる。心の奥底では東京人になりきれていないのだ。

高速道路を走っているときは集中する。疲れるが、余計なことを考えずに済む「無」の時間。家に居たら、今日は何もすることがない、何もしたくない、何もできていない、そう余計なことを考えてしまうのだけど、そうした余地すら与えない緊張感。そして何よりも走ることの面白さ。それは竜の背中にのって手綱を取り、大地すれすれに飛んでいるような感覚。
何よりも父の運転する助手席が好きだったあの頃。免許を取ってまっさきに志賀高原に繰り出したこと。宮ケ瀬まで毎日のように往復したこと。北海道でひどい大雨に遭ったこと。伊豆半島を一周したら日付をまたいだこと。好きな音楽を聴いて、目的地まで何も考えない、無の時間を過ごす。もしかしたらそれがいちばん人生で楽しい、意味のあることだったんじゃないだろうか。

まだ間に合うんじゃなかろうか。時間はまだある気がする。もう一度自分を取り戻したい。帰着したのは22時を過ぎていたが、とにかく楽しいと感じる一日だった。やっぱりバイクは、おれの人生になくてはならないものなのかもしれない。あの日、起きたらなぜか突然バイクの免許が欲しくなった、懐かしい夏の朝から、始まっていたんだ。