白黒はっきりしないほうがいい時もある

自分は自他共に認める完璧主義。
どっちつかずな状態が嫌いで、白黒はっきりしてないと気がすまない。
でも、何でも白黒はっきりしてることが正しいのではない、そういうことをようやくこの歳になって学んだのだ。

子供のころは優柔不断、いつもどっちつかずで半端な自分だった。いつしかそういう性格をやめよう!と殻を脱いで、きっぱりと意志を明確にして生きるようになっていたのだが、それが原因でストレスを感じることがとても多くなっていったのだった。
カウンセリングなどを通して、どちらでもない状態を許すということを、はじめて意識してできるようになった。

たとえば、ルールを守るか、守らないか。ルールに守ってさえいればそれが正義だと思い込んでいた。ルールを守らない人は全員悪だ。そんな単純な思い込み。盲目的に、いままでそうだったからそうするべき、とか、みんなそうやってるからそうあるべき、そういうのも同じ類だ。
学生時代の自分は、おかしいと思ったルールや、時代の流れにそぐわないルールは守らなくてもいいのではないか?と考えた。既存のルールに従わないのなら悪だという観点からして、さっそく矛盾である。だけど、こう解釈した。必ずしも既存のルールに従う必要はないが、代わりの新しいルールは決めて、それを守るようにすればよい。
しかしこれもまた、ある角度から見たら中途半端なのだ。結局それは全部「自分ルール」だったのだ。臨機応変、柔軟に考えを持っているつもりでいたが、つまりそれは、自分に都合のよいルールに変えただけ。
決まりごとはなるべく守る生き方をしているつもりだったが、夜間赤信号でも絶対渡らないか?といったらNOだし、必ず速度制限を守っているか?といわれたらNOだし、そもそも義務教育に行ってない時点でルール違反である。全部自分の都合のよいルールに勝手に書き換えて、それを守ってすっきりしてきたに過ぎないのだ。

もちろんどちらかしか選べないことはある。そのどちらかをとらなければならない、それをはっきり選択するのは素晴らしいことだ。という感情を持ってしまうと、絶対にはっきりしない事柄に直面したときに、心がついていかないのだ。たとえば相手を傷つけないためだったり、調和を乱さないためだったりするための曖昧さ。それに気づけないし、許せない。それなのに、はっきりすることが正しいと思い込んでるから、なぜ浮くのかわからなくなる。実はその調和が、いじめの集団だったりする可能性はまた別の話。

 

世の中はグレーを白か黒に分けなさいという、答えのない選択をせまる問題であふれている。それのすべてに都度馬鹿正直に白か黒か答えてしまうことは、自分の感覚こそが正義だと盲信する結果となる。ある人からみたら白、ある人から見たら黒、世界はそんな事象ばっかりだ! 自分は白く見えるからこれが黒だなんてありえないと言い切ると、そうは見えていない相手を「全面的に」否定することにもなりかねない(自分は部分の否定のはずが、相手にとっては全面的になるところがポイント)。自分だけでない、相手の立場や考え方が多種多様であることをかんがみて、これはもしかしたらどちらでもないグレーなのかもね、とあきらめる、許す、受け入れることが必要なのだ。