愛の形に決まりなどない

日曜日は母の日だった。母の日に何か贈り物をしようという、そうした動きはとても良いことだと思う。
日ごろお世話になっている母へ、想いを贈る大切な日があるのは、すばらしいこと。母の日を否定するつもりはないのだけど、どうしても母の日になると毎年思い出してしまうことがある。

 

小学校4年生の母の日。貯めたお小遣いで、はじめて母親に本物の花を贈ろうと思って、ひとりで花屋に出かけた。当時はまだ平成ヒトケタ、母の日といえば赤いカーネーションで埋め尽くされていた。
一面真紅で埋め尽くされたその中に、ひときわ目を引く花があった。白いカーネーション。幼き眼にもそれは、優雅であたたかく、やわらかいぬくもりを感じさせ、ひと目みた瞬間から、美しい、この花を贈りたい、と思った。
500円玉を握り締めて、勇気を振り絞って、この花をくださいと、お願いすると、店員はこういった。

「あなたにはお母さんがいないの?」

言っている意味がわからなかった。

「白いカーネーションはね、お母さんがいない人が買うものなのよ。あなたのお母さんは亡くなったの?」

「いいえ、でも」

「それなら、赤いカーネーションになさい。これは贈ってはいけないのよ」

言われるがままに、赤いカーネーションを買う運びになった。そういうものなのかと、幼心に思ったことを覚えている。だけど、白いカーネーションの美しさは忘れられなかった。そう、いまでも。

 

白いカーネーションの花言葉は、「亡き母を想う」だそうだ。確かに大の大人ならまず贈り物にはしないだろうが、花言葉を知っている小学生が、わざわざあてつけに白いカーネーションを母に贈ろうと思うだろうか。まあ、世間にはそう思う人もいるかもしれないけれど。

白いカーネーションがどんな意味を持っているかよりも、子供が母親に贈り物をしようと思うその行為こそが尊ばれるものではないか。花言葉の意味を知らない子に「白のカーネーションは贈ったらダメ」なんて言ったって、無粋で余計なお世話だったよなあと、今になっても思う。

かつてランドセルが赤と黒の二種類しかなかったのが現代でカラフルになったように、これという決まりもなく、自分が好きな花を、大好きな相手に贈ること自体が尊いとされる日がくればいいのになあ。まだその時代ではないのだなあと、毎年毎年、心の傷を思い返すのだ。

 

花言葉の意味など関係なく、明日は美しい、白いカーネーションを買いに出かけよう。